●肉体を鍛える、精神を鍛える
医学不要論では栄養素や排毒を重視しているが、それさえもすでに能動的でなく受動的側面を持っていることにも気づくべきである。
なぜなら、食や栄養素は極論すれば「もらうもの」であり、排毒にしても「何かにやってもらうもの」であるからだ。これを超越して精神の輪を強固にするために必要なことこそ「鍛える」ということだ。肉体を鍛えることも精神を鍛えることもこれはあくまでも能動的である。栄養素を摂るのに、サプリであっても、健康食品であっても、自然食であっても、注文すればそれなりの健康を手にすることはできて、生命の輪は整うが、「鍛える」ことは注文できない。これこそが自ら動くということの根幹である。
鍛えるというのはいくつか方法があるが、一般でもさまざまな方法が提唱されているだろうから、ここでは割愛する。
ただ、最初に意識してほしいのは精神の輪にも書いたように、アイデンティティや自我の確立を終了させることである。これがほとんどの人々にとってできていないといって過言ではない。そしてこれを確立していくために、調べ、学び、勉強し、知り、選択し、自ら決断して自分で責任をとるということにつながっていくわけだ。
自分がなぜ生きているのか、人前で講演できるくらいの人はいったいどれくらいいるだろうか。それに対して質問されたときに答えることができる人はどれくらいいるだろうか。私はほとんど知らない。
そして、仮にそれができないのだとしたら、アイデンティティはまったく不確率なのだ。それで健康云々など、へそが茶を沸かすとはこのことである。
私もよく患者さんに、なぜ生きているのかと聞くのだが、たとえば返ってくる答えとして「え~、食べるため?」「仕事して食うため?」「子どもを養うため?」などなど、よくわからないといった答えしか返ってこないことが多い。さらに「じゃあなんで仕事するの?」と問うても、だいたいは「食っていくため?」とか「楽しいから?」といった答えばかりである。
これらを確立するということには正解はない。しかし、それを突き詰めて、自分なりの答えはすでに出ているか?ということを問うているわけである。
本来、人間は20歳までにこのことを終了させておかねばならない。と私は勝手に考えている。その20歳のアイデンティティはもちろん変化していってもよい。その時点でのその人の年齢にあったものを構築することが必要である。しかしそんな20歳を実際だれも知らない。ただの一人もみたことがない。
だから、日本人が不健康ばかりなのは精神の輪においても必然である。そんな大事なことを無視して、食とか栄養素とかサプリとか腸内細菌とか健康食品とか、そんなことばかり考えているのであれば、それはむしろ健康から遠ざかりかねない。
心と体の協調性は常に肉体の病気を超越して考えられなければならないのだ。
(「医学不要論」)
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